異能の武術家・光岡英稔先生と日本ブラジリアン柔術界のレジェンド・中井祐樹先生の共著『術と道』書評の2回目です。
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第1回はこちら。
今回は、本書における光岡先生の指摘
光岡 武術界ならびに武道界の現状は、正直いうと支離滅裂で玉石混交がひどすぎる状態ではあります。
この点を掘り下げてみたい。
本書では、武術・武道・格闘技の違いとそれらの課題が、光岡先生と中井先生それぞれの視点で語られている。
武術と武道の違いについては、詳しくは本書を読んでいただきたいが、ざっくり言えば、武術とはシンプルに「技術」であり(その殺傷性の高さ故に「死生観を問う技術」となっているが)、武道とは明治以降そこに精神性を付与しようとしてきた試みであると言える。
まあ私としては、流派のあり方は各流派に携わる方々が考えればよいと思っているが、ただし、すべては「実力があるからこそ」成り立つ。
どれだけ高尚なことを言っても、社会に向けてよいことをやっていても、「武」を名乗るからには、その実力が証明できなくては意味がない。
私が長年稽古してきた中国武術も、格闘家との試合で無様を晒し、本当に強いのか?と疑問視されることが増えてしまった。
「格闘技の試合にはルールがあるからだ。ルールのない戦いなら武術のほうが強い」
という意見もあるだろう。
そういう側面もあるだろうが、試合を見る限り、私の目には「それ以前の問題」と見える。
根本的な実力不足を感じることが多い。
中国武術をはじめとする伝統武術に取り組む方々も、それぞれの領域で努力していらっしゃるのはよくわかっているので、私としてもあまりいろいろ言うのは心苦しい。
だが、実力を示すことができないと、伝統武術が先細っていってしまう。
武術をやる一番シンプルな動機は「強くなりたい」であろうから、「強くなるんだったら現代格闘技のほうがいいや」となってしまったら、貴重な伝統武術が失われてしまう。
私、そして間違いなく光岡先生も、伝統武術の中に「現代格闘技にない強さ」を見ているのだ。
これが失われてしまうことは、人類的損失であるとすら私は思っている。
光岡先生と中井先生は、本書の中でどう述べているか。
光岡 ここであらためて武道や武術、格闘技の違いについて整理しておいた方がいいと思います。(中略)格闘技と武術、武道の違いは死生観が関わってくるのではないでしょうか。競技武道や格闘技で人が死ぬとアクシデントになります。でも、武術の場合は人が死ぬことはアクシデントではなく、技術的にも思想的にも意思と目的が達成された結果でしかないんです。技術的に人を殺傷する体系だから。その前提にある発想がまったく違うのかなとは思います。
ただ武道の場合は、武術と格闘技の中間というかグレイゾーンにある感じですよね。柔道という競技化した武道のバックボーンは武術で、たとえば起倒流や天神真楊流に由来する技は危ないですよ。シラットに勝るとも劣らない殺傷性の高い技を内蔵している。ただ不用意に使っては不慮の事故が起こり得るから、それをはぶかないと競技化ができない。
ここで矛盾が生じるのは、競技が盛んになると危険な技が練習されない稽古体系になっていく。本来備えていた武術の技が失伝していく恐れがあります。
中井 いまだに柔道には「古式の形」が残っていますよね。
光岡 嘉納治五郎は「古式の形」や「五の形」によって武術の要素を残そうと考えたんでしょう。だけど柔道に初めて入門した人にとっては、当然ながら自分の力量でできる技に現実性を感じるわけです。乱取りを通じて力をつけている実感がある人にとっては、「古式の形」は非現実的だし、「あんなので実際に人が投げられるわけない」と思っても仕方ない。「古式の形」を実践可能な状態まで復興できる人がいなくなっていくから、現代武道において、あんな古い形の稽古なんかしても実戦にむけてなんの役にも立たないと決めてかかる現実性は、ますます重みを増していきます。
本書ではさらにここから、殺傷技術としての武術と競技・試合との関係性や、娯楽・コンテンツ化していく武術についての問題提起などがあるので、ぜひお読みいただきたい。
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私としての考え方だが、なんと言っても私を含む、今現時点で古武術・伝統武術に関わっている人々の自覚なくしては、古武術・伝統武術の未来はないと思っている。
自分の武術は、使えるのか?
この問いは多角的かつ深層的な問いであるが、それを踏まえた上で、この問いを常に自分自身に対して発し続けることが必要であろうと思う。
武研門の「古武術パーソナルトレーニング」は、「今のあなた」に役立つ古武術の技術をお伝えします。
一対一で向き合うからこそ、古武術の真髄をお伝えできるのです。
まずは、あなたの悩みを聞かせてください。
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