あけましておめでとうございます。
昨夜、つまり大晦日から元旦朝にかけて、あまりきちんと寝付けない中、自分の身体の中にこれまでになかったものを見つけた。
胸の奥のほうに「黄金に輝く小人」がいるのだ。
この「黄金に輝く小人」は、これまでの私の経験を凝縮したような存在だ。
私はこの小人にアクセスするだけで、自分の身体を動かすことができるのだ。
私は、この小人の存在を捉えるだけでよい。
自分で身体の各部にいちいち指示を出す必要がない。
故に、圧倒的に速い。
そういえば、ずいぶん前に光岡英稔先生がこれに類したことをおっしゃっていた。
そんな教えがあったことすら完全に忘れていたが、まったく思わぬ時に教えは具現化するものだ。
どうすれば”こう”なれるのか?
私は大勢の師から学んできたが、中でも「理解不能な超人」と言わざるを得ないのが、甲野善紀先生と光岡英稔先生だろう。
ひとつひとつの技術を学ぶことはできたとしても、「なぜこのお二方がこのような境地に辿り着いたのか」という点については、まさに理解不能という他ない。
こういう人物は稀にいる。
中国武術の世界では、董海川や王向斎に出会った人はおそらく同じ想いになっただろう。
日本剣術であれば、上泉信綱や塚原卜伝がそれにあたるか。
比較的近年であれば、国井善弥か。
今を生きる人であれば、ボクシングを学ぶ人にとっては井上尚弥。
野球を学ぶ人にとっては、大谷翔平。
いずれも、周囲にとっては、圧倒的な実力に憧れつつも「どうすれば“こう”なれるのか?」という問いには皆目検討がつかない、というところではないだろうか。
誠に僭越ながら、甲野善紀先生を例に取ろう。
甲野先生の指導法「松聲館スタイル」は、参加して楽しい。
甲野先生が今興味を持っている技術や身体観が、ただ提示されていく。
参加者はそれを試してみてもいいし、それとはまったく関係ないことをやっていても咎められない。
これほど自由なスタイルは、他ではお目にかかれない。
だから、初心者にもやさしい指導法ではあるが、しかしこれが初心者向きの指導法かというと、まったくそんなことはない。
初心者、いやかなりの経験者であっても、甲野先生の術理を紐解くのは難しい。
そのため、初心者はそこで何が起こっているか理解できず、ただ「わー、すごーい」と感嘆して終わりになってしまう確率が高いと言わざるを得ない。
故にこの「松聲館スタイル」は、初心者でも敷居が低い一方、そこから何かを得るためには、そこで何が起こっているかを観取り、かつそれを自分自身の稽古として組み立てられる力がないと難しい、というPros&Consがある。
単なる「感嘆係」を脱却し、”甲野善紀”になるためにはどうすればよいか、という問いはナンセンスといえばナンセンスだが、しかしやはりこういう問いを立てなければ、自分を変革することはできない。
”甲野善紀”になるためには、ひとつひとつの技術を追いかけているだけでは足りない。
甲野先生に長年学んできた方ならわかると思うが、甲野先生は「近年稀に見る大発見をした」みたいな台詞を、数ヶ月に一回くらいはおっしゃっている😅
また稽古中に「こんなことができるとは、ついこの瞬間まで思わなかった」と言いながら、新しい術をその場で披露するのはしょっちゅうである。
また忘れてはならないのが、甲野先生は合気道や国井道之伝剣術などの既存流派を深く稽古しているということ。
その場の思いつきだけでやっているわけではない。
つまり、既存技術体系を深く学びつつ、その技術体系にこだわらず自分自身の感性に基づいた、その瞬間その瞬間の「発見」に重きを置いている、ということだ。
もちろん、その発見を実証することにも余念がない。
”甲野善紀”になるためには、甲野先生の真似をしているだけではだめなのだ。
自分自身で基礎をしっかり積み上げつつ、自分自身の感性に重きを置くことができなければならない。
それを続けていると、元旦の朝に「自分の胸の中に『黄金に輝く小人』を見つけた」というような、理解不能な台詞が吐けるようになる😅
だからどうした、と言われても返す言葉はない。
だが、この「確実性」は、私自身にはわかっている。
これをどう具体化するかは、一人一人の受講者と向き合いながら提示していきたい。
2026年も、どうぞよろしくお願いいたします。
