お茶の本質は『中身』だが、『器』がないとお茶は飲めない、という話

2024年も本日で終わり。
今年は武研門を立ち上げました。
ご利用いただいた方はまだ少数ですが、ご利用いただいた方は皆、認識の変化を口にされました。
心より感謝します。

本年最後の記事は、「お茶の本質は『中身』だが、『器』がないとお茶は飲めない」という話を。

お茶を出された際、空っぽの茶碗だけ出されたら「バカにしてるのか」と怒るだろう。
中身のお茶がなければ、当たり前だがお茶は飲めない。

しかし、茶碗なしでお茶を出すことは可能だろうか。
無論、不可能である。

お茶の本質は『中身』だが、『器』がないとお茶は飲めない、ということである。

武術も、『器』なくしてそれを具現化することは不可能である。

武術における『器』はいろいろある。
「肉体」もそうだし、「流派」「型」なども『器』と言えるだろう。

茶器の製作も極めて奥が深く、その道の達人が卓越した技巧をもって行うものだ。
『器』づくりも決して簡単ではなく、それだけで生涯を費やすに値する。

だがしかし。
どれほどの超絶技巧をもってしてつくられた『器』であっても、茶の湯の席で『器』だけ出すなどということはあり得ない。
主人はまず器に茶を立てて客に出し、客は茶を飲んだ後に器を鑑賞などするが、どれほどの名器であっても、茶なしで器だけ出したりしたら、この上ない失礼に当たるであろう。

茶の湯であれば誰もこれを間違えないと思うが、武術だと不思議なことに「茶なしで器だけ出す」人が少なくない。
これでは論外であることは言うまでもない。

ただ、『中身』が練れてくると、今度は「それをいかなる『器』でもって具現化するか」という課題も立ち現れてくる。

今年は、ブラジリアン柔術の練習を再開した年でもあった。
私にとってブラジリアン柔術は「新たな器」だ。
この器でもって自分が納得いくような茶を出せるようになるには、まだ時間がかかるだろう。

しかし、私には「他の器」で磨いた「茶の立て方」がある。
これを、ブラジリアン柔術という器でどう具現化させるか。
現在、楽しみながら息子と一緒に取り組んでいるところである。

来年もさらに己の『器』と『中身』を磨きつつ、武研門をより多くの方々に利用していただけるよう取り組んでいく所存である。

それでは皆様、良いお年を!😊

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