武術修行者は『自分流創始者』になるしかない、のではあるが…という話

改めまして、新年あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

さて、2025年最初の武研門記事は、「流派を学ぶとはどういうことか」について考えてみたい。

後学者はどうやっても創始者とイコールにはならない

伝統武術を語る際、「流派の系統・系譜の正当性」はしばしば議論になる。

「あの人のやっていることは、創始者の提示しているものと違う」
「あの人は全伝を学んでいるわけではない」
「あの人は一門を離れ、別の流派を立ち上げた」
等々。

流派の系統・系譜が重要であることは否定しない。
ただ、ひとつ忘れてはならないことがある。

「後学者は、どうやっても創始者とイコールにはならない」
ということである。

創始者には、流派を創始するに至る、創始者自身の経験がある。
その経験にこそその流派が創始された淵源があり、究極的には、その経験をしていることがその流派を修めるための必須条件であると言わなくてはならない。

ところが、後学者が創始者と同一の経験をすることは、何をどうやっても不可能である。
故に「伝承の不可能性」という、武術家にとっての難題が立ち上がってくることになる。

「流派」とは、創始者がこの「伝承の不可能性」を知りつつも、それでもなんとか自身の経験を伝えていくために作り上げた枠組み、または体系であると言える。

後学の武術家もまた「伝承の不可能性」に絶望しつつ、それでもなんとか創始者の経験を追い、自らの経験を積んでいくために流派を学ぶのである。

『自分流創始者』になるしかないのだが…

甲野善紀先生はしばしば「皆が『自分流の創始者』になることを望んでいる」とおっしゃる。

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この点は私もまったく同感だが、これを聞くと少なからぬ人が「じゃあ、自分で好きなようにやっていいんだ」と誤解するのではないかと危惧する。
そうおっしゃる甲野先生は、合気道や鹿島神流などを深く学んでいるという点を忘れてはならない。

よく言われる言葉だが、
「型を学びそれを破れば『型破り』だが、最初から型がないのは『型なし』だ」
ということである。

私の25年間の武術歴を振り返るに、まあ見方によっては迷走を繰り返していると見えるかもしれない。
ただ私は、「伝承の不可能性」を知りつつ、自分自身の経験と感性、あるいは現代の環境条件といったものをうっちゃって、ただ流派の枠組み・体系だけを追い続けるということができなかった、と言える。

自分自身で感じ取り、自分の内なる声に従って稽古する時間は絶対に必要だ。

「お茶の本質は『中身』だが、『器』がないとお茶は飲めない」
というたとえは、我ながらうまいこと言えたと気に入っている。

お茶を飲む上で『器』は欠かせないが、なんといっても、お茶が美味しいことが何より重要だということは何度でも強調したい。

武研門ではご希望の流派をお教えしますが、流派の伝承を目的とはしていません。
「あなたの課題解決のためのお手伝いをする」ことを目的としています。

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