現代人には「土の山を移すだけの修行」はできないーー「今、ここ」からの伝統武術

昨日は光岡英稔先生の剣術GPCに参加させていただき、日本剣術の本質に迫る深い稽古をつけていただいた。
のみならず、ありがたいことに稽古終了後も様々なお話をいただき、大きな示唆を得た。

帰宅してからもまた“なんとなしに”陳式太極拳をやってみたりと、身体が騒いで止まなかった。

一晩明けて、ひとつほぼ確信したことがある。

現代人の99.9%にとって「甄三の修行法」はできないし、やったとしても有効ではない。

「甄三の修行法」とは、銭育才『太極拳理論の要諦』で紹介されている昔日の稽古法だ。

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甄三(けんぞう)は近代の角力(中国式相撲)の名人だった。
甄三は師から、広い庭の隅にある土の山を大きいシャベルで反対側に移せと命じられた。
甄三は3ヶ月余りでようやく移し終えたが、次に師は、その山を元に戻せと命じた。
そうこうしているうちに3年近くが過ぎ、さすがの甄三も堪忍袋の紐が切れ、ある日ビクビクしながら、師に技を教えてくれるよう申し出た。
すると師は「お前はもう相当の技を身につけている」と言った。
甄三は師に命じられ、試しに師と組んでみたところ、自分でも驚くような技を身につけていた。

要約すると、このような話である。

このような修行法が有効なのはよくわかる。
しかし、現代人にこれができるだろうか。

一回、土の山を移すことはできるだろう。
しかし、3ヶ月かかって移し終えて、その次に
「よし。じゃあこの山を元の位置に戻しなさい」
と言われたらどう思うか。

「ハァ?!」
と思うだろう。

私だったら思う😅

私だったとしたら、そう言われたら、

「ああ、足腰を鍛えろということなんだろうな…。映画『少林寺』にもこんなシーンがあったな…。しょうがない、やるか…」

くらいまでは考えて、なんとか自分を納得させて山を元に戻し始めるかもしれない。

しかし、それが1年続き。2年続き。
スマホでYouTubeを見ると、自分と同じ入門時期の者が大会で優勝したり、MMAデビューしたりしている。
「土の山を移すだけの修行法」をやっている人は誰もいない。

それでも我慢して、『少林寺』を思い出しながら土の山を移し続け、そして3年が経過した。
そこで一大決心をし、試合に出てみようと考えた。

「よし、いっちょ腕試しだ!」

角力の試合に出てみようと思ったが、身近にそういう場がないので、グラップリングの試合に出てみた。

そしたら、まったく知らない技でひっくり返され、バックを取られ、チョークで落とされた。

〜〜完〜〜

まあ、この「架空の話」は「もし私だったら」ということでご理解いただきたい😅

しかし、大多数の現代人はこれに近いことになるのではないか。

この「架空の話」にはいくつかポイントがある。
ひとつは「現代の環境」だ。
私たちは百年前からは考えられないような膨大な情報に晒されており、その情報を処理することに否応なしに適応せざるを得なくなっている。

「甄三の修行法」は、その修行法と師を「完全に信じている」場合におそらく有効となる。
しかし、疑ったら、たとえ続けてても有効ではなくなるだろう。
疑念を持つということは、今そこにある身体に眼が向かなくなるということである。
(見方を変えれば、甄三は師に疑いを持つのに3年かかった、と言えるかもしれない)

この情報に溢れた時代に、このような修行法だけをひたすら続けることが「最も強くなるための道」と確信し続けることができるだろうか。

自分は、自分でなくなることはできない。
自分が、所与の条件に基づく自分自身であるという出発点から始める以外の道はない。

今、情報があふれるこの時代に生きる自分自身が、何を感じているか。
そして、何を感じることができてないのか。

まず、ここから始めるしかないのである。

興味があることなら、やってみればいい。
知っていることがあるなら、単なる知識に留めず、やってみて検証すればいい。

どっちみち、過去の達人と「同一の存在」になることは不可能である。
ならば、ありがたく先人の遺産に学ばせていただきつつ、自分自身の道を歩む以外にない。

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