なぜ王向斎は「站椿だけやればよい」と言ったのか

(本記事は、2021年8月28日にnoteで公開した記事を再編集し再掲したものです)


なぜ王向斎は「站椿だけやればよい」と言ったのか。

站椿ができなければ、他に何をやっても意味がないからだ。

どれだけ多くの型や技を学ぼうと、いざそれを使う段になって「自分から遊離」してしまったら、全く意味をなさない。

あるいは、いかなる型も技も、站椿が示す「内外を捉え、そこに居続けること」ができなければ、仏作って魂入れずとなる。

站椿を用いずとも「内外を捉え、そこに居続けること」はできるかもしれない。
より古い時代の武術家にとっては、これは常識だったかもしれない。
しかし武術の型も、形は受け継がれるも中身が伝わらなくなり、見た目が正しくとも中身がない、ということが増えていく。

王向斎の時代には既に「形意拳の形骸化」が懸念されていた。
だから、王向斎は「站椿だけやればよい」と言った。
王向斎の元で学んだ弟子は皆、形意拳などの修行を積んできた武術家だった。
だから、站椿で「中身」を入れればそれでよい、と考えたのだろう。

王向斎は站椿を示し「これでわかるだろう」と考えた。
しかし王向斎の弟子の中でも、ものにできたのは一握りの者だけだった。
さらに「現代人」という、王向斎が想像もしてなかった人々が現れた。
今度は「中身」どころか「形」もなくなっている。
自分の身体がどこにあるかもわからなくなっている。

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現代人がひたすら站椿だけやっても難しい

現代人が、ただ形を真似して站椿だけひたすらやっても、王向斎に近づくことはまず無理だろう。
「なぜ站椿が必要なのか」を理解するのに、私は23年ほどかかっている。

まあ、私はちょっと遠回りしすぎたかもしれないが😅

しかし、遠回りした分の経験はしている。
「経験」こそが本質だ。
身体は、経験によってできあがっている。

私たちは、どういう経験を迎え入れるべきか。

これは、一人一人が自分でデザインするしかない。
自分の経験を他人頼みにすることは、不可能なのである。

站椿がもたらす「経験」。
これこそが、站椿が必要な理由である。


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