形意拳にあって、意拳にないもの

形意拳にあって、意拳にないもの。

それは「形」です^^

というのはトンチではなく。
「形」が「形骸化」した故に、「形以前のもの」を主眼に置かないとまずい、という王向斎の危機感を感じるのである。

意拳は形意拳から生まれたが、風格はかなり異なる。
王向斎が形意拳から意拳を創始した契機は何か?

今日の稽古で「もしかしたらここではないか」と感じたので、記しておく。

形意拳の起式の一番最初。

「直立から右足をわずかに開く」

この動きの難しさにある。

直立した「無極状態」から、動きの「機(気、起)」を見出すのは、本質的困難さがある。
だからこそ最大の稽古ポイントなのだが。

直立状態において「左右のズレ」を見出すためには、「無極状態」ーー何の形も動きも発生していないうちからの「ズレ」を見出すことができなければならない。

この本質的困難さが「一番最初」にあるということに、王向斎は教伝上の問題を感じたのではないか。

王向斎の時代には、既に形意拳の形骸化が懸念されている。

「形骸化した“形”しかわからない者に、右足を開くことはできない」

王向斎は、こう感じたのかもしれない。

このため、王向斎は「左右のズレ」を後回しにしたのではないか。

意拳は、まず平歩で立つ。
そして手を挙げて、寄せる。
これは、形意拳の起式でも同様のルートを辿る。
ただ意拳では、足の角度を変えない。

そして、站椿の形に入ってから技撃椿に移る。
ここでようやく「左右のズレ」が生じる。

「ズレ」に注目することによって初めて動きが生じ、技に転換できる。

身体が最初から観えていれば、すぐに「何がズレているか」に取り掛かれるが、身体が観えていないのであれば、まず「身体を観る」稽古から取り掛からなくてはならない。

まあもちろん、意拳成立の経緯はこれだけではないが、こういったところから「形意拳」から「形」を取った「意拳」が生じうるのではないか、と、先ほど少し三体式をやっていて感じたところである。

流派、あるいは「型」は、膨大な誤解にさらされつつ、読み解く者が現れるのを永永と待ち続けている。
私とてまだまだ、スタート地点から多少進んだにすぎない。

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