なぜ、武術を学ぶのか?

今回は、大前提中の大前提の疑問に答えてみたい。

なぜ、武術を学ぶのか?

結論から言う。

『あきらめないために』武術を学ぶのである。

王宗岳の『太極拳論』には、このようなくだりがある。
(銭育才の解釈的訳文を引用する)

拳法にはいろいろな流派が数多くある。各流派で行われている練習姿勢も多種多様で、様々な区別があるけれども、それを総括してみると、おおよそ強壮たる者が軟弱たる者をいじめ(すなわち勝ち)、動作ののろい者が動作のすばやい者に負けるに外ならない、と言える。しかし、力のある者が力のない者を打ち破り、動作ののろい者が手出しのすばやい者に負けるのは、みな体が本来もっている力のもたらす結果であり、学習の積み重ねとは関係がないのである。思うに、太極拳修練でよく耳にする”四兩の力で千斤の力を弾く”という句の表しているのは、明らかに力で勝っている状況ではなく、八十歳九十歳にもなる老人が数人を相手にして、いかにも軽々と渡り合いしている光景を眺めるにつけ、ただ動作の素早さに頼るなら、そこで何ができるというのか!?

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力が強い者が勝つのは当たり前だ。
では、力が弱い者は、老人は、女性は、子どもは、ただただ力が強い者の支配に甘んじなければならないのだろうか?

そうではない。
それを教えてくれるのが武術だ。

もちろん、力が強い者は手強い。
こういう相手を打ち負かすのは、武術を学んだとて簡単な話ではない。
しかし、武術を学べば、少なくともそこであきらめる必要はなくなる。

さらに、この「力の強い者」というのは、常に相対的であることも念頭に置かなければならない。

中井祐樹先生が道場で仰った名言が非常に印象に残っている。

「力で勝負していると、必ず自分より力が強い者が現れる。その時どうするかだ」

普段自分より弱い者ばかりをいじめ、いざ自分より力が強い者が現れたら何もできず這いつくばることしかできないのであれば、いったい何かを学んでいると言えるだろうか。

もちろんこれは、対人戦闘技術のことばかりを言っているわけではない。

生き抜くことは困難を極める。
世の中、どうにもならないことばかりだ。
だが、それは先人たちも同じであった。
そこであきらめないための技術を、先人はたくさん残してくれているのだ。

これが、武術を学ぶ理由である。

あきらめたくないあなた。
あなたの身体には可能性があります。
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